2024/07/10

INTERVIEW

【湘南PEOPLE】元山青麗さん|本当の意味での食育って?息子のアレルギーで気づかされた、子どもの未来をつくる食とは

今回は、鎌倉在住の元山青麗さんにインタビュー。ファラフェル専門店の経営を経て、現在はファラフェルの卸しをはじめ、ワークショップやケータリング、そのほか小学校での講義など「食」にまつわる活動をしている青麗さん。東京で多忙に働き過ぎて体調を崩してしまった青麗さんが、鎌倉へ移住して感じた体と心の変化とは?
 
 
――「食」にまつわるお仕事は興味があったのですか?
「いえ、飲食店では一切働いたこともなかったし、食事もそこまでこだわっていたわけではありませんでした。料理も習ったことなかったし、すべて独学です。会社員時代はずっと営業をしていて、結婚して出産してからは普通に専業主婦をしていました。」
 
――では、どんなきっかけで食の仕事を始めたんですか?
「きっかけは息子のアレルギー。生後3カ月くらいのとき、皮膚がただれてしまうほど赤くなり、かゆみをともなう湿疹が続いていて。最初は乳児湿疹かと思ったのですが、あまりにひどいので病院で診てもらったら、重度の食物アレルギーでした。主に小麦、卵、乳製品、そば、大豆がダメなので、しょうゆやみそもNG。離乳食を始める前だったので、私の母乳でも(症状が)出るほどでした。それゆえ私がそれらの食べ物を控える必要があり、アレルゲンとなり得る添加物も摂取してはいけなかったので、すべて自炊に。2年ほど、外食が一切できなくなりました。
家族で外食いっても私だけ食べられなくて、持参した塩おにぎりを食べたり。家でも私の食事は一般的な調味料が使えずどこか味気ないものだったので、家族と自分用と2つ料理をしなければならない。一日中キッチンに立っている状態でした。でも、もし普通の食事を一口でも食べてしまって、その日に子どもの肌にかゆみが出てしまったら、『私のせいでこんな辛い目に遭わせてしまった』と罪悪感にさいなまれてしまうので、徹底的にやっていました。」
 
――それは大変でしたね。青麗さんはとくにアレルギーがあるわけではないんですよね?
「自覚症状としては、まったくないです。3人の子どもがいるのですが、(重度な)アレルギーがあるのは2番目の子どもだけ。だからこそ最初はどうすればいいのかわからず、とにかく人に聞いたり自分なりに調べたりしながら、体をととのえることに専念していました。その甲斐あってか、2〜3年たった頃に小麦と大豆は克服して食べられるようになったんです。そこからヴィーガンならOKになったので、ヴィーガンの食べ歩きを始めました。いまでこそヴィーガン食を取り入れている人も多くお店も増えていますが、当時は対応しているお店は少なく、頑張って情報を得て探しました。
いろいろお店を巡ってみて、『あれ? 意外と美味しいな』と思って。もともとヴィーガン食は味気ないもの、食べ応えなさそうなものという偏見があったのですが、思った以上に満足感があるし美味しいものもたくさんあることがわかって、新しい発見でした。それにたくさん食べても翌日胃もたれしないし、肩こりがなくなったり、体調の変化も感じるように。そこからヴィーガン食にハマっていったんです。」
 
――ファラフェル専門店『FALAFELISTA』を立ち上げたのは2020年とのことですが、なぜファラフェルだったのでしょうか。
「濃いめの顔をしているので中東に縁があるのかと言われるのですが、まったく関係はありません(笑)。ファラフェルは、お肉や小麦などを使わなくても、シンプルにおいしいんですよ。ヴィーガンでなくてもそうでなくても、子どもも大人も、宗教上の理由など関係なく、世界中の人が垣根なくみんなで楽しめる料理。アレルギー体質の息子は、子どもたちの誕生日会などの集まりがあってもいつもみんなと同じものが食べられない。だから隅っこでひとり、泣きながらごはんを食べていたんです。そこの輪のなかに入れないのは、とても辛く寂しかったと思うんです。
でもファラフェルを家族みんなで食べたとき、みんなで一緒に『美味しいね』と食べることができたんです。その時間は私にとってとても幸せを感じるものでした。食事はおなかを満たすというだけでなく、みんなで食卓を囲んで感想を言いながら、喜びやうれしさを伝え合う役割を果たしてくれるものだと、実感したんです。そういった経験ができる食事を提供したいと思ったのが、お店を立ち上げたきっかけです。」
 
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ヴィーガンではなくても楽しめるのがファラフェルの魅力
 
――ファラフェルとは、ひよこ豆や香辛料を使って作られた中近東発祥のコロッケですよね。
「はい。私はひよこ豆とスパイス、ケール、玉ねぎを使って作っています。最初は家で作ったものが美味しくできたので、近所の方々にお持ちしていただけなんです。そのうち広尾で飲食店を経営している方から、『すごく美味しいからうちで出したら?』とおっしゃっていただき、間借りさせていただくことになりました。そこからいろんな方からお声がけいただくようになり、POP-UPやイベント、料理教室などさまざまな形で広めていただきました。2022年には港区三田にあるフードコートでの営業も始まり、一年ほどファラフェルとスープを提供していました。」
 
――お客さんの反応はどうでしたか?
「外国人の方やヴィーガンやグルテンフリーを求めている方は訴求しなくても見つけて来てくれたのですが、そうでない方やファラフェルを知らない方に届けるのが難しかったですね。届けたい人に届けられるように、イベントなども積極的に出店したのですが、子育てもしながらだったので一人だけでは難しく、忙しすぎて体調を崩してしまって。途中から大阪にあるOEMの工場に依頼して、レストランや店舗に卸しをするようになりました。」
 
――体調を崩されたときはどうケアしていたんですか?
「ケアどころか、そのときは無我夢中で。起業したのも初めてだったし、仕事に没頭していたので自分を労るような時間をとってはいませんでした。初めての起業で頑張らないと!と力が入っていたのもあり、がむしゃらに働いていたんです。でももっと家族との時間を増やしたかったし、海の近くで住んでみたかったのもあり、昨年の8月に鎌倉へ移住しました。それと同時にお店もクローズしました。」

――なぜ鎌倉だったんでしょうか?
「夫婦2人とももともと好きな街だったんです、旦那さんは海沿いに住んでいたイギリス人というのもあって、鎌倉は落ち着くみたいで。休みの日には家族で遊びに行っていた場所でした。子育てするにも自然に囲まれた場所がいいなと思っていたし、東京にも通いやすいので鎌倉に決めました。」
 
――青麗さん自身、自然に囲まれた場所で暮らしたことはあるんですか?
「東京生まれ、東京育ちで、通った高校も新宿。まさにコンクリートジャングルで生まれ育ちました。満員電車で駅員さんにぎゅうぎゅうに詰め込まれ、自分のスペースに知らない人が入ってくるあの世界は、いま考えると辛かったのだと思いますが、それはそれで当たり前だと思って生きていました。
でも大学生のときにサンフランシスコに留学して、日本文化について話す機会が増えたんです。そこで日本というものを外から見るようになって、いままで当たり前だと刷り込まれていた概念が、実は違ったということに気付かされました。そこではじめて、『あのとき、私は心地悪かったんだな』という思いに気づきました。この経験が大きく、自分が心地よい自然がある場所で暮らしたいという思いはずっとありました。」
 
昨年の夏に鎌倉へ移住し、いまではファラフェルの卸しやイベント、ワークショップ、そのほか食にまつわる活動をしている青麗さん。
鎌倉で暮らすようになってから体調は回復し、何より精神面が変わったそう。それは青麗さんのみならず、家族全員に変化があったとか。
 
「日々の心の持ちようが変わりました。東京にいた頃は心のゆとりがなく、心身ともにバランスが崩れてかなり痩せてしまって、体もバキバキ。いまは海の目の前に住んでいて、自然に囲まれて過ごしているだけで肩の力が抜けて、どんどん心身がととのっていきました。
いろいろ向き合った結果、私の場合不調の原因のほとんどがメンタル。それまでは疲れたり肩が凝ったら整体やマッサージにいく、という概念でしたが、何か不調が訪れたらそれは余裕がない、ということなんです。鎌倉へ来てからは何か特別なことをするよりも、睡眠や食事、運動のバランスを取りながら、日々の生活に余白をつくる大切さを感じています。
旦那さんも東京勤務ですが、オンオフがしっかりできるので精神的にいいみたいです。子どもも鎌倉が大好きみたいで、移住してからよりのびのびと楽しんでいるような気がします。」
 
――素晴らしいですね。鎌倉ではどんな過ごし方をされているんですか?
「朝は5時に起きて必ず海へ散歩に行きます。今朝は6時頃、子どもとビーチクリーンをしてきました。そこからバタバタと子どもたちの朝ごはんや掃除などをこなして、落ち着いたら自分で作ったコンブチャを飲んだり、手作りグラノーラを食べたり。仕事や用事を済ませて、夕方サーフィンに行くことも。サーフィンは鎌倉へ来て初めて挑戦しました。まさか40歳を過ぎてサーフィンを始めるとは!と自分でもびっくりなんです。海は見る専門で、サーフィンをやるなんて思ってもいませんでしたがすっかりハマってしまって。海まで徒歩1分なので、ボードを持ってサクッといける立地なのでふらっと好きなときに行けるし、ボードの上でプカプカと浮いているだけでも癒されます。」
 
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青麗さんが住む鎌倉・長谷は海のすぐそば
 
――海に入るだけでも、浄化されますよね。
「そうですね。なるべく一日のなかで自然に触れる時間や自分のための時間を10分でもいいからつくるようにしています。仕事や家事に追われたままだと漠然と時が過ぎてしまって、自分にフォーカスがいかないままになってしまう。そうなると体調を壊したり、目に見えた不調が出てくるのだと思います。自分を愛でることで小さなことにも感謝できるようになり、家族のケアもできる。やっぱり一番大事なのは家族なので、家族のためにも自分が幸せであることが大切だと考えています。
あとは半年前からピアノを始めたんです。これも新しい挑戦。鎌倉在住のその先生は、技術面を教えるというよりは心を解放させるピアノの弾き方を教えてくれるんです。それがすごく楽しくて、家でも少しの時間でもいいので弾くようにしています。」
 
――心が解放される感じとは、具体的にいうと?
「言語化するのが難しいのですが、体の変化でいうと弾いているうちに呼吸が自然と深くなっていたり、体が熱くなるんです。体のなかで循環しているのか気持ちが動き出すのか、どんどん気持ちよくなって、何かを放電しているような感覚。もともと自分を表現するのが苦手なのですが、自分の殻をやぶって内なるエネルギーを感じることができます。」
 
――いろんなことにチャレンジされていますが、もともと活発なほう?
「活発だとは思います。でもその原動力って、自分に自信がなかったところから始まっているんです。3月31日生まれなので、小さい頃は学年のなかで一番とろくさくて、不器用で、何をするにも一番遅い。それがコンプレックスでした。しかもすごくシャイで、いまでこそ知らない人に話しかけちゃうほど人見知りしないのですが、昔は知らない人が家に来ているとリビングを通れなくてトイレにいくのを我慢してしまっていたくらい(笑)。
それで、小学校に上がったときに人前で恥ずかしがるのを克服したくて、演劇部に入ったんです。子どもなりに、いろいろ考えたんでしょうね(笑)。おかげで人前に出ることが怖くなくなりました。当時から自分の得意なところを伸ばすというより、苦手なことを克服してコンプレックスを解消しよう、と考えるほう。自信がないところからチャレンジするマインドでした。」
 
――逆転の発想ですね。
「自分ができないことができるようになったほうが、自分が幸せになる手段が増えるじゃないですか。母親になって毎日せかせかしているうちに自分が好きなことや趣味がわからなくなっていた時期があったんです。でも自分のご機嫌は自分でとらない限り、誰も幸せにはしてくれない。だから自分が持っている“好き”の引き出しは多く持っていたほうがいいのかなって。
とはいえ苦手ばかり追求していても苦しいし、ある程度自分に自信はついてきたので、これからはもっとワクワクするもの、心地いいものを大事にしながら生きていきたいと思っています。そういうマインドになったのも、鎌倉に住んだのが大きいです。」
 
――それはなぜでしょうか。
「鎌倉で出会う人は、好きを仕事にしている人が多く、しかもそれがひとつじゃないことが多い。肩書きにこだわらず、やりたいことを追求しているうちに結果的にいろんなことをするようになった、という人ばかりなんです。ゆるいケースでいうと、波がいい日はサーフィンするために店閉めちゃう人もいる。それがいい悪いは別として、自分が心地いいことを優先して生きていることが素敵だと思いました。そういった人たちとの出会いから、『頑張ってガツガツしなくていいんだ、本当に心地いいことを追求していいんだ』という自分へのゆるしを得られて、生きるのがふっと楽になりました。
それからは依頼がきた仕事をすべて受けるということはなくなり、勇気を出して“NO”と言えるようになりました。最初はすごく、(断ることに)葛藤があったんです。でもそれをやってきて体調を崩してしまったところもあったので、頑張り過ぎないように意識しています。」
 
――頑張るのも癖になりがちですよね。
「自分が頑張っているということを、誰よりも自分に対して一番証明したかったのだと思います。それがなくなり、頑張る矛先が変わったという感じです。」
 
――どう変わったのでしょうか。
「先ほどもお話したように、余裕を持って自分をケアすることに目を向けるようになりました。つまり、自分の人生を豊かにすることを頑張るということ。“これが食べたい”“海に行きたい”など、自分がウキウキするものに耳をすますことを大切にしています。“病は気から”とよく言いますが自分がやりたいことをやっているうちに自然と体はととのい、いつの間にか元気になっているものです。何をするかではなく、どう感じるかに重点を置いています。」
 
――今後はどんな活動をしていく予定ですか?
「お店をクローズして鎌倉で暮らし、原点に立ち返ったとき、私は結局何をやりたいのだろうと改めて考えてみると、『一人ひとりが自分に合った食事や、心身ともに満たされる食事を知るきっかけになるような仕事やサポートをしたい』と思ったんです。ファラフェルはひとつのツールであり、経験を活かせるもの。とくにきっかけは息子のアレルギーなので、アレルギー体質のお子さんやそのママのサポートもしていきたいし、これから長い人生が待っている子どもたちが食に興味を持ってくれるような活動をしていきたいです。」
 
――たとえばどんな活動でしょうか。
「先日は幼稚園でファラフェルプレートを160人の園児たちに提供してきました。みんな興味津々で、『美味しい!』とパクパク食べる子、初めて見るからおそるおそる食べる子もいれば、『何からできているの?』とたくさん疑問を投げかけてくる子もいて、ひとつの体験になってくれればと思っています。
子どもの頃の楽しい記憶って、食とセットなことが多い気がしているんです。遠足のときに食べたお母さんが作ったおにぎり、キャンプのときに森のなかではじめて作ったカレーライス、畑で自分が採った野菜が美味しかったとか。そういった子どもの頃から豊かな食体験をするというのは、大人になっても忘れないものです。そんな記憶があれば、『自分が美味しく感じるものはこういうものだ』というのがわかってくるので、大人になったときに選択しやすいと思うんです。そのほか農家の方とコラボして小学校の講義をしてもらったり、私ができない分野は専門の方にお願いしています。」
 
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「子どもたちに自分で作って自分で採って食べるということを経験してもらいたい」と、最近は自分でも畑を始めたそう
 
――本当の意味での食育かもしれないですね。
「本当にそうですね。いまの時代、いろんな情報を得られる反面、情報過多なところもあります。『これを食べたら健康になる』『これを食べたらよくない』といった情報があふれ、食事自体を楽しめない人も増えている気がします。人によって体は違うし、合う・合わないは自分の体が一番知っているはず。外の情報を鵜呑みにしすぎず、自分の体と向き合うことが一番大事。そういったことを考えるきっかけの場をつくっていきたいです。とくに女性は出産をしたり、年齢を重ねるごとに体質が変わりやすいので、微細な体の反応を常に感じながら意識することが大切だと思っています。
体感するのが一番早いので、料理教室などもしていきたいです。最近は腸の勉強もしているので、自分の経験だけではなくプラスαの知識を得ることで、より情報を多角的に伝えていけたらと思っています。」
 
――体質は変わっていくので、健康にゴールはなく、常に向き合っていくことが大事かもしれません。
「男女関係なく、死ぬまで自分の体とはつきあっていくもの。旦那さんも、長年難病一歩手前の症状がある持病があったんです。かかりつけのお医者さんには『完治することはない』と言われていて、ずっとステロイド漬けの生活をしていました。でも彼に合った食事や運動を見つけて、それを続けた結果改善することができて、ここ数年は薬を飲んでいないんです。息子のアレルギーも『給食を食べるのは無理』と言われてきたけど食生活を変えたことで完治しました。いまでは私も息子も、好きなものを食べています。人間の体はいくらでも変わりうるということを証明してくれた経験でした。
そして私たちのやり方が正しいということではなく、それぞれが体に向き合い、自分の正解を見つけていくのが最善だと思っています。万人に通ずる正解なんてないんです。そのためにいろいろ試すことはいいと思います。私も、いまでも模索中です。でもその繰り返しかなと思うし、向き合えば向き合うほど体は教えてくれるし、環境によっても変わってくる。自分との対話を欠かさないことが一番大事なんだと思います。」
 
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鎌倉のお気に入りのお店「Melting pot」。新鮮な食材を使ったスウェーデン料理がいただける
 

3人の子育てをしながらあらゆる活動をしている青麗さんはとてもキラキラと輝き、エネルギーがあふれていた。自分の心地よさを追求しているからこそのパワフルさなのだろう。
湘南には食の意識が高い人が多い。そのなかでもいままで仕事を頑張ってきたひと、自分の心身を削りながら生きてきた人がたくさんいる。きっと、そんな経験があったからこそ見えてきた世界があるのかもしれない。流行も、新たな知識や食材も多く出回る世の中で、自分に合うものとはなんなのか? 改めて考えていきたい。

Text by Sonomi Takeo

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